アダルト業界に身を置き第一線で活躍する賢者たちが、懐旧の情に駆られながら、若かりし日の風俗体験について思う存分語りつくすこのコラム。
記念すべき第一回目は、AVや風俗、アダルトメディアについて多くの著書を執筆し、ミュージシャンとしても活躍しているフリーライター・安田 理央氏。
長年アダルト業界で精力的に活動してきた安田氏に、若かりし日の風俗体験について追憶していただきました。
風俗初体験はバイトの先輩と高田馬場のファッションヘルスで。
初めて風俗店に足を踏み入れたのは1985年で、僕はまだ学生だった。
確か、バイト先で仲良くなった先輩と新宿で遊んでいて、その流れでヘルスに行こう、という話になったような気がする。
バイトの給料が入って、気が大きくなっていたのだ。
僕は学生の身分ではあったが、風俗店も飲み屋もうるさいことは言わなかった、そういうおおらかな時代だった。
1985年といえば2月に新風営法が施行された年だ。
その数年前にノーパン喫茶ブームが終焉を迎え、ファッションヘルスが盛り上がりを見せていた頃。
のちに宇宙企画を代表するAVアイドルとなる早川愛美がヘルスのアイドルとしてマスコミに出まくっていた。
彼女の在籍していた店が高田馬場の「サテンドール」だった。それでファッションヘルス=高田馬場というイメージがあったのかもしれない。
僕らは新宿で遊んでいたのに、歌舞伎町には行かずに高田馬場へ移動したのだ。
ただ、なぜか「サテンドール」には行かずに、同じさかえ通りにあった別の店に入った。「ヘルス高田」とか、そんなような名前の店だったような気がする。
肝心のプレイ内容については、さすがに記憶もぼんやりしているが、20代半ばのスレンダー系のなかなかの美人だったことと、シャワールームでいきなり咥えられてびっくりしたことは覚えている。
初体験自体はその前にどさくさにまぎれたような感じで済ませていたのだが、フェラチオされたのは、その時が始めてだった。
仮性包茎なので、それまでオナニーも皮の上からこすっていたのだが、ヘルスのお姉さんは皮を剥いて舐めてくれた。快感というよりも、電撃を受けたような感じだった。
プレイの途中で、シックスナインをお願いした。明るいところで、本物の女性器をちゃんと見たのはこれが初めてだった。とはいえ、どんな形の性器だったのかは覚えていない。
そして緊張していたせいか、酒を飲んでいたせいかわからないが、ちゃんと射精することは出来ないままに終わってしまった。
それでも、店を出た後に、先輩にはちゃんと「初体験」を済ませたような顔をして話したのだが。
その後、高校を出てから働き出し、ひとり暮らしも始めた。たまに格安ソープランドやファッションヘルス、ピンクサロンなどに行ったりもしたが、それほど風俗にハマるというほどでもなかった。
「新々風俗」と呼ばれる新たな風俗が盛り上がり始めた90年代初頭。
風俗にハマっていったのは90年代に入ってからのことだった。
イメージクラブや性感マッサージといったそれまでの風俗の流れとは違った新しいタイプの店が急増した。
最初の頃は、そうした店の情報は風俗情報誌にも出ておらず、スポーツ新聞や夕刊紙などの三行広告だけが頼りだった。わずかな文字だけの情報から、サービス内容を読み取って吟味し、記載されている電話番号にかけてみる。教えられる店の場所は、マンションや雑居ビルの一室。看板も出ていない。
当然、不安な気持ちもあるのだが、宝探しのような探検のような気分もある。ひょんなことから、そうした楽しさを知ってしまい、すっかりハマってしまった。
「新々風俗」もしくは「平成風俗」と呼ばれるようになるこの手の風俗店は、どんどん店を増やし、盛り上がりを見せていった。
この頃、僕は広告代理店のコピーライターとして会社員勤めをしながら、バイトでエロ本のライターをしていた。AV関係の原稿が多かったが、少しずつ風俗の仕事も増えてきた。
自分がハマっている世界なので、原稿を書くのも楽しい。仕事を抜け出して、風俗店の体験取材をして、ローションの匂いをプンプンさせながら職場に戻るなんてこともしていた。まったくとんでもない不良社員である。
新々風俗は、ますます盛り上がりを見せていた。店はどんどん増え、サービスも過激化していった。
風俗ライターとして独立。「新々風俗」は風俗のメインストリームへ
会社員をしながらの片手間では、その動きについていけない。この盛り上がりをもっと見ていたい。書いておきたい。
そう思った僕は、辞表を書き、フリーライターとして独立することにした。1994年のことだった。
この時期の風俗業界の過熱ぶりは、思い出すだけでも興奮する。
最初はマンションの中でひっそりと営業している店ばかりだったのが、やがて池袋のサンシャイン通りに、堂々と看板を出した店がオープン。
さらには、旧勢力の風俗のメッカであり、新々風俗がなかなか踏み込むことが出来なかった歌舞伎町にも、ついに看板をだして営業する店が誕生した。
そこからは勢いは一気に加速した。あらゆる繁華街に新々風俗の店舗がオープンした。
それまでの主流であったファッションヘルス、ピンクサロン、ソープランドなどに比べると、料金も安くてサービスは過激、そして女の子も若くて可愛いという新々風俗は、風俗のメインストリームへとのしあがっていた。
メディア露出に積極的だったことも、それまでの風俗とは違っていた。続々と創刊される風俗誌のグラビアは新々風俗店の女の子たちが占拠していた。
そして、駆け出しのフリーライターである僕にも、風俗取材の仕事がひっきりなしに押し寄せた。
僕は特に体験取材の記事を得意としていたので、毎週何軒もの店でプレイした。
そして、その合間に自腹でも遊びに行きまくっていた。風俗で稼いだ金は、風俗に還元すべきだという気持ちだったのだ。
電車内や教室、オフィス、公園などを再現したプレイルームを備えたイメージクラブ、コンニャク素股や水車ハケプレイなどの珍プレイを売りにした性感ヘルス、そしてアナルファック専門店。
様々な形態の新しい風俗店が毎日のように登場する。少しでも目を離すと時代から振り落とされそうだった。これがブームというものの熱さなのかと思った。
2004年から始まった一斉摘発の嵐。「新々風俗」は衰退へ
そんな平成風俗ブームは、突然終焉を迎えた。2004年に新々風俗店が一斉に摘発されたのだ。
実は新々風俗店は、風営法の許可を取っていない“モグリ”の店だったのだ。だから当初はマンションの中でひっそりと営業していたのである。
しかし、それが段々大きな顔をして堂々と営業するようになっていったのだ。
だから、それまででも摘発を受けることは珍しくなかった。
しかし、そんな時でも店名を変えるだけで、何事もなかったかのように営業を再開する、というのが通常のパターンだったのだ。ある意味、形だけの摘発だったのだろう。
だが、2004年から始まった一斉摘発は違った。無許可店は徹底的に潰された。店名を変えて営業再開すると、また摘発された。
そんな摘発の嵐が吹き荒れると、都内の新々風俗店はあっという間に姿を消した。その後、摘発の嵐は日本全国へと広まっていった。
みるみるうちに、ひとつの業界がなくなってしまった。お上が本気になると恐ろしいのだなと実感した。
デリバリーヘルスが主流となり、徐々に風俗への足が遠いていった。
もちろん風俗が無くなったわけではない。
ファッションヘルスやピンサロ、ソープランドといった許可店は残った。
そして1999年の風営法改正から許可されるようになったデリバリーヘルスが、その後の風俗の主流となっていった。
店舗を構えることなく営業できるデリヘルは凄まじい勢いで増えていき、かつての新々風俗店の数を超えるほどになった。
しかし、新々風俗のブームと共にハマっていった僕にとっては、新たな主流となった風俗店はあまり愛着が持てないものだった。
憑き物が落ちてしまったかのように僕は風俗への興味が薄らいでしまい、自腹を払ってあれだけ通っていたのに全く足を運ばなくなってしまった。
そして、当時の思い出は記憶の一ページへと変化した。
今でも「新々風俗」ブームに沸いたあの頃をしみじみと思い出す。
いや今の風俗は、むしろ新々風俗の頃よりもレベルが上がっているのかもしれない。
ただ、自分があそこまで風俗にハマったのは、風俗嬢やプレイ以上に、ブームの持つ熱気に当てられていたのではないか。そんな気がしているのだ。
デリヘル中心になったことで風俗店の看板は繁華街から姿を消し、あれほど乱立していた風俗誌も壊滅し、その主戦場はネットへと移った。
今でも時おり、ケバケバしくもポップな風俗店の看板が咲き乱れていた頃の繁華街の光景を思い出すことがある。もう15年も前のことになる。
今でも、たまにあの頃の風俗嬢たちは、今頃どうしているのだろう、なんて考えることもある。
そう考えていると、またあの頃のように風俗に行ってみたいという思いがこみ上げる。
みんな、幸せに暮らしていたら、いいな。
- 安田 理央
フリーライター、アダルトメディア研究家 - 埼玉県出身。
1986年より雑誌編集業務に従事。コピーライター業を経て、1994年よりフリーライターとして活動を開始する。
AVやエロ本、風俗、ネットなどのアダルトメディアに関しての執筆が多い。1999年以降はAV監督としても活動。
主な著書に「痴女の誕生」「巨乳の誕生」(共に太田出版)「AV女優、のち」(角川新書)など。
新刊「日本エロ本全史」(太田出版)発売中。
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